大阪公立大学EJ ART人材育成プログラム基礎講座③ AOPワークショップ
「誰かのもやもやをうけとる~AOPで“これまで”をふりかえる~」
をふりかえる
「アート/ケア/文化政策」研究会は、大阪公立大学EJ ART人材育成プログラムに講師として参加しています。2024年度は、7月24日に、反抑圧的アプローチ(Anti-Oppressive Approach、AOP)を体験するワークショップとして「誰かのもやもやをうけとる」フォーラムシアターを実施しました。
以下では、プログラム参加者のみなさんへ研究会が応答するやりとりが展開しますが、基礎講座にご参加のみなさん以外とも、対話を続けたいテーマがつまったやりとりとなっております。AOPや当事者性、誰ひとり取り残さない安心・安全な場づくりに関心のある方は是非ご一緒に、この対話にご参加ください。
今回、基礎講座終了後にいただいたふりかえりに、「アート/ケア/文化政策」研究会のメンバーが応答するかたちを取りました。それはなにより、参加者のみなさんも、わたしたち自身も、次のような感覚におちいると考えていたからにほかありません。
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限られた時間内で演劇をつくるということは、多少強引なところが出てしまうと実感した。声の大きな人に寄り添って、寄り道する余地がなくなってしまうことの危険性を感じた。
「100%を目指さなくても良い」と言って頂いたが、発表時間(幕をあける) のために、何かを犠牲にしてしまうことがあると気づいた。
こうしたWSには、”正しいやり方”があるとも、ないとも言えるなと思います。ただ、やってみただけのなんちゃって体験にしないためには、いかんせん時間が少ないと感じました。
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限られた時間では、こぼれ落ちてしまった視点や、聞こえなかった声、通り過ぎてしまった寄り道、やり終えたからこそ見えてきた視点について、この場で対話を続けて行けたらと思います。
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こたえが1つではなく、それぞれまたちがった視点があり、結論が出ない事が多々ある。
今回の発表では、うちは並べたてる手法を取り ましたが、現実の場では、話が進まず困った事になる。けれど、臆せずそれぞれの気持ちを言い合える場、状況を作ることに意味があるのではないかと思いました。
最後のチームから出た「声の大きい人だけいなく、いろんな人に意見を求めよ」というのが、すばらしい!と思いました。だまっている人が、何も意見がないわけはないのだけど、どうしても、意見を発する人の ペースでものごとは進んでいくものなので、発話が苦手 または不可能な人のこともしっかり配慮したい。誰もが、アイデアを出せる方法…どんなものがあるだろう?
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対話のテーマが決まれば、話し合いが展開していくわけではないし、誰もが同じように、声を発することはできないことは、様々な現場でわたしたちが体験することかと思います。「臆せず気持ちを言い合える」ことを、妨げているものには何があるのでしょう?「声の大きい人」のペースにストップをかけられないのはなぜでしょう?今の自分の立場や肩書があるから?自分の気持ちを話すと脱線してしまうから?だまっている人が口を開くのを待っていると何も決まらない、と感じてしまうから?
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実社会の中では、もやもやが、気付かない内に心の中で傷になっていくという事も多く発生していると自分では感じます (特に自分が違和感に気付きを言語化するのが得意でないからです。) その現実にあるのは、自分が他人にどう思われても、自分の意思や考えにその場で自信がないことで通り過ぎてしまう(そうしないと生きていきにくいから)という事も多いということかなと思いました。時差を経てもやもやがが立ち上がってきた時に、そこをどう受け取り、どう表現していき、どう解放していくかがすごく難しいと感じます。
どのように問題点を変容させられるか、違う価値観を持つ大人の人と議論できたことがとても印象的だった。
排除される人の存在を認識して、どうすれば排除しないようにできるか考えることは、想像以上に難しかった。また、排除される当事者としての経験が無い中で彼らの気持ちに思いを巡らせるにはどうすれば良いのだろうと思った。「加害者/抑圧者になるかもしれない」という認識を持っているだけでかなり違う行動がとれると思った。
物事を変えようという行動のとり方は、闘争以外の方法もあると思った。何よりもしっかりとしたルールが決まっていけば良いと思った。ルールを決める中で、オープンマインドを持つ姿勢を多くの人に持ってほしいと思う。
全ての人の思いを尊重する中で、どの様な表現が人を活かすことにつながるのかを考えたい。一方的な、枠の中で決めつけた表現は、多くの人を傷つけ不快な関係を生んでしまうと感じた。
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ルールを決めると同時に、誰かを傷つけるのではなく「人を活かす」ことに繋げていくマインドとは、どのようなものでしょう。ルールばかりの環境や、プライベートだからなんでもありの場面はあっても、ルールとオープンな枠が、うまい塩梅でブレンドされた場を体験する機会は、そう多くないかもしれません。
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日常の中で直面しうる場面・言動・態度について 見つめ直すような機会はあまりなく、討議を通じて日頃の自身のふるまいの見直し、他者への応答の仕方を察することができた。また、場を(いわゆる)上手く流すだけでなく、(雰囲気を悪くせず) 根本の改善まで意識して働きかけることの現実的な難しさを感じもした。
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学校で正解を答えたり、仕事で目的や解決策を提示する機会は、日々経験します。そうした経験を通じて、わたしたちは「雰囲気を悪くせず、上手く場を流す」術を身につけているのかもしれません。現代の日本では、一部では「めんどうなこと」を避けることを是とする価値観が広がっています。誰かを不快にしないために避けていた「めんどう」をおこすこと。それが溜まりに溜まって、自分の首を絞めるような状況に陥ってはいないでしょうか。
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弱者とよばれる人の感情・考えは、書きあらわすことが難しい。 口語で思っていることを言葉にしたり、表現したりすることで、問題や立ちどまって考えてみたい本質のようなものが見えてきたように思う。 スクリプトがたくさんもやもやを抱えていて、どういう風に実践にもっていけるかわからなくて焦点をあててみたけれども、 焦点をあてたところをくわしく見るだけでも何かできるかもなと思った。
タダでバイオリン奏者に依頼する場面について。「タダではあかんやろ~」とみんなで合意できていたが、もっとその「あかん」 を言葉にして説明できればと思った。 (時間拘束の観点から話しがでていたこともあったが...)
私たちのグループでは、セリフの内容だけを考えるのではなく そもそもの会議の場の設定のされ方について、まず考えることができた(当たり前になっているようなことを疑い、それについていて話し合う)ことがよかったと思います。
セリフとして文字で見ると、よりモヤもやする部分が鮮明になり、色々なことに 気付きやすいのかなと思いました。
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「そんなの当たり前」あるいは、「めんどうなことになりそうだ」と直観しても、スマートな立ち振る舞いの流れに身を任せず、その違和感に「はて」と立ち止まって、みつめてみる。そこからはじめて見えてくるものも、あるかもしれません。
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悪い例を見る中で 自らの姿勢についても大いに反省し、他の人が「はて」(虎に翼)と思っている事に注目して変えることから始めたい 。
グループワーク:実は大阪部長さんは、この人なりの配慮や気遣いから、こういった発言になっているのでは、という意見にはっとした。
大勢の人が集まって、どんどん挙げていくと、自分では全く気づけなかったポイントを 出てきました(例えば発議が偏っているのではないか、とか...)
そういうポイントを今まで見すごしたまま、もしかすると、他の人にもやもやした思いを させながら、生きていたかも、ということが頭をよぎり、ひやりとさせられました。
自身の持つ視点では異なった視点で行動し、それに対するレスポンスのタイプも、見ることで 視野が広がっていきました。
自分の考えだけでは、場面によっては相手を傷つけてしまう場面があると思うので、今回他の方の対応のしかたを見れて良かったです。
ワークでは、現在一般的にハラスメントという認識を持っている内容__
これからの新しいハラスメントというのも生まれてくるのだろうという気がしました。
日常的に人を変えることは難しいと認識があるので、どうしたら変えていけるのかアプローチしていくことをグループで検討していく良い経験とまった。あきらめが良くないと改めて考える機会となった。
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異なる視点を持つ他の誰かを想像すること、「新しいハラスメント」が生まれてくる予感を感じ取ることで、「みんなにとって安心安全な場所など存在しない」と認識することは、とても大事なのではないでしょうか。そこで、諦めてしまったり、辛さ比べをしたりするのではなく、どうやったら「より安心・安全な場所」にしていけるかを、場にいるみんなで考え続ける。そうした姿勢を表す、「セーファー・スペース」という言葉があります。ここまできたら絶対安心と、油断しないためにも、場に関わる一人ひとりが「より安全な(セーファー)」スペースを生み出し維持していくことは、どのように可能でしょうか。もやもやは、無自覚な人から発生することも多い、それゆえに、もやもやするとも言えます。
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職場の雰囲気は上司でずいぶんとかわる
でも、そういうこと(もやもやすること発言してしまう)を無意識でやっている上司にどのように抵抗できるのだろうか?
権力をもっているだけにそこを突き崩すのは難しい。
周りから発言でフォローすることで少しずつ変えていくことはできるのだろうか?
このワークの通奏低音にフレイレの『「被抑圧者の教育学』があるとのことで、 40年前に読んだこの本がまだ通用していることをただなつかしいだけではなく、変わってないのか社会は…と複雑な気持ちになった。
社会の構造を変えるには権力を持ってる階級が変わらないかぎりハラスメントがなくならなりません。
抑圧をうみ出す人が悪というわけではなく、構造の問題だと感じました。
劇での上司も悪意がなく、自身の今までの経験の中でそういった価値感になったのだと思います。
糾弾するのではなく、気づきを得るきっかけをつくることが必要なのかと感じました。
それが一番難しいのですが...
なかなか変わらないようにみえる社会、変わらない誰かさんがいても、周りの他の人がどんどん変わっていったらどうでしょう?
最初は、上司の女性軽視発言について 部下が明るく受けながす方法(例えば、「女性が「料理をしたら」に対して男性が「僕がやります」とこたえるなど。)を考えていたのですが、それでは上司の変容が結局起きず、永遠にこの不快な状況が続くのだろうなと思いました。
人が変わるためには 良いモデルが必要であり、その影響(こういう言い方って、良いなぁという共感)が大事かと思い、台本では、上司そのものが理想的な態度をとるストーリーに修正 しました。チームメンバーからの意見、アイデアが出やすくなることで、上司も成長できる(気付きを得る)環境づくりも意識しました。
グループワークで、他者の意見を聞き、ほぼ同意見であった。それが、EJ ARTの参加者であるからなのか。
しかし台本は日常で起こっている事であるこれに違和感を感じる事が、あたり前になると、この台本の、世界観がなくなり、もやもやが減っていくはずだ。
チーム戦で、挑む事で、もやもやが解消されるケースが成立することが、役を演じて理解が進んだ。
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変化の体験が積み重なり、それを一人ではなくチームで体験・共感できたとしたら…「もやもや」が少しずつ晴れていく未来が、見えてくるように思います。でもそれは、問題意識を同じくしてEJ ARTに集ったわたしたちだから可能なのでしょうか?変化の連鎖は、どこまで広げていくことができるでしょうか?
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上司の問題点をみんなで「つっこむ」という展開になり、大阪らしさの魅力を感じました。
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いろんな人を巻き込んでいく際には、ユーモアも肝心でしょう。他の方からご指摘のあったように、勇ましいファイティングポーズではなく静けさのなかから、声をあげていくという方法にも、可能性を感じます。平等と正義への挑戦には、ここまでやれば十分、という目標値は存在しないかもしれません。その高すぎる目標設定自体が、AOPの弱点ともいわれます。それでも、ここで出会うことのできたみなさんとわたしたち、それぞれの持ち場で、小さな変化を起こし続けていけたらと思います。
ゼミを選択してくださったみなさんとは、このふりかえりで見えてきたポイントもふくめて、時間をかけてAOP的アプローチを一緒に考えていけたらと思います。基礎講座のみご参加のみなさんも、このふりかえりを経て、みなさんと共有したいアイディアや想いがでてきたら、ぜひ今後の活動を通じて実践してみてください。みなさんのひらく新しい可能性から、わたしたちも学びたいと思っています。
2024.9.12 「アート/ケア/文化政策」研究会一同